短編小説 おかあちゃん

「井辺ちゃんの、ヒントコーナー!!」

 

彼の笑顔にはいつも翳りがあった。いや、正確には僕にはそう見えたというだけのことかもしれない。彼はいつも笑顔だったが、刹那的に深い悲しみが顔を出すように思えた。彼がエッキシという時に見せる白い歯は、彼のどこまでも純粋な人柄を表しているようだったが、何かを一度全て洗い流してしまったような、喪失感を覚えさせる色だった。

 

井辺卓也先生は数学の講師だ。毎回彼の授業中には笑いが絶えない。しかしながら、授業を疎かにしているというわけではなく、ムダがない。

 

僕はそんな井辺先生に時々みえる物悲しさのような、実体のないおぼろげな哀愁を確かなものにしたいと考えていた。あるいはそれはただの好奇心かもしれない。それは当の僕にも判断しかねる感覚であった。

 

確率の問題の質問ということで講師室を訪れ、師の姿を探す。「ようこそ我らが駿台の講師室へ。」といつもの気さくな調子で語りかけてくる師。僕が発した疑問点に的確に答えて笑う師と、他愛もない話をした後で、本題を切り出した。

 

「先生、あの、あのなんていうか…あまりうまく言えないんですけど…先生って昔なにか悲しいこととかありました?…いや、何がってわけじゃないんですけど、なんとなく、ほんとになんとなく、たまーに先生がすごく寂しそうな顔するじゃないですか。もし違うかったら全然いいですし、答えて頂かなくても大丈夫なんですけど。先生よく問題解いてて行き詰まったら『おかあちゃ〜ん』っていうじゃないですか、あの時とか特に寂しそうに見えるんですけど…」

 

井辺先生はよく数学の問題が解けないと大声で「おかあちゃ〜ん」と大声で叫ぶ。もちろん他の生徒は面白おかしく笑っているだけだが、僕にはそれができなかった。黒板をこするチョークの音と、大勢の笑い声の中で、僕は全く別のことを考えていたのだ。

 

すると、彼の笑顔が一瞬綻びた。せわしなく机をなぞる彼の右手の人差し指が彼の気持を物語っているようだった。

 

「んー、そんなこと言われたんは初めてやなあ。」

と言って少し考え込む。

 

「君がいってることにあたるのかは分からないけれど、少し昔の話をしようか。」

 

そう言って師はおもむろに口を開いた。

 

「俺が小学生の頃、うちは母ちゃんと姉ちゃんの三人暮らしやってん。姉ちゃんは俺より3つ年上でな。父ちゃんは俺が5歳の頃病気で亡くなってな。で、うちの家は貧しくて、住んでるとこもろくなとこやなかったんよ。よく家賃取りにガラの悪いおっさんらが玄関を叩いたりとかはしてたな。で、俺が小6の頃、姉ちゃんは高校受験って時やってんけど。姉ちゃん頭良くて、近くの私立の名門校に入れる学力やってんな。でもうち貧しかったから、どうしよってなって。ほんなら母ちゃんが、『あんたは私の誇りや。思う存分好きなように生きなさい。お金のことは心配せんでええ。』って。それで姉ちゃんはその私立高校目指そうってなって。で、うちの母ちゃんはもともとスーパーのパートから上の人の親切で社員になってたんやけど。姉ちゃんを高校いかさなってことで家帰ってからも内職で夜中にちっさい時計組み立てたりとかしててんな。俺の目から見ても明らかに無理してて。本来母ちゃんは体が弱い方やったから、日に日に疲れ切っていく母ちゃん見てんの辛くてな。」

 

4分前に湯気を立てていたコーヒーはもうすっかり冷めきっていた。そこにいたのは笑顔の絶えない予備校講師ではなく、一人の30代の男だった。

 

「で、姉ちゃんの受験の1ヶ月前くらいに母ちゃんいよいよ倒れてしまってん。それでも母ちゃんは内職はしようとするくらいの元気はあったから大丈夫やおもてた。だから後であと2ヶ月しか生きられないって聞いたときは何のことかわからなかったな。母ちゃんは姉ちゃんの勉強に差し支えたらあかんって、内臓に少し悪いところがあるから入院するとしか、姉ちゃんには言わなかったねん。俺は毎日病院に通った。それでも全く実感はなかったな。もうすぐ母ちゃんがなくなってしまうのだという実感は。」

 

どれくらいの時間が経ったのだろうか。死角となって見えない時計の針は正確に毎秒を刻む音を発していた。

 

「いよいよ母ちゃんが危ないって時になって。俺は母ちゃんの手を握って泣いていた。『たっくん、ずっと看病してくれてありがとう。母ちゃん、たっくんには姉ちゃんよりあまり何かをしてやれなかったけど、たっくんも私の自慢の息子やで。本当に生まれてきてくれてありがとう。あなたはすごく算数が好きだから、算数の先生になってたりしてね。お母ちゃんその姿を天国から見守ってるからね。』」

 

「そういってからお母ちゃんは激しく咳き込み出してな。俺が前の日に買ってきてたお守り握りしめて、最後までなんかと戦ってるみたいやったわ。俺はただ、おかあちゃん!おかあちゃん!としか叫ぶことしかできなかったね。だから今でも数学の問題を解けないとすごく不安になって、あの時の気持ちが少しだけ思い出されることがあんねん…ごめんなくらい話聞かせてもて。こんなん他の子にいわんといてな?俺の授業で笑ってもらえなくなったら君営業妨害やからな?でもな、その時に悲しいことばっかじゃなくて、楽しかった母ちゃんとの思い出も鮮明に思い出すから、プラマイゼロみたいなところはあるねんな。」

 

師がそう言い終える前から蛍光灯はひどく歪んで見えていた。涙がとまらなかった。左手に握りしめていたシャープペンシルを筆箱に直すと、師に礼を言って講師室を出た。

 

 

それから、井辺先生の授業を受けるときは他のみんなと同じように心の底から笑えるようになった。彼の「おかあちゃん」という叫びが悲痛な思いからではなく、天国にいるおかあちゃんへの呼びかけのように思えるようになったからだ。

 

END